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大橋泰彦さんのエッセイ「音楽通り」


昭和30年代末頃の「音楽通り」の様子が次の文章から偲ばれます。この一文は、
1988年 第32回 岸田國士戯曲賞受賞者・大橋泰彦さんが月刊『すばる』に執筆されたエッセイ「音楽通り」からの抜粋です。
 
 

                         …【略】…

沿線に日吉、田園調布、自由が丘、代官山を置く、日本でもハイソサエティーな私鉄、東横線の横浜よりの終点、桜木町に、私の実家がある。線路と平行に、国道県道を間に置いて、一方通行の小さな商店街、花咲町は、「ハナザキチョウ」と読むのが正式らしいが、私はいつも「はなさきちょう」と言う。

一直線に五百メール程続く商店街は、通称「音楽通り」と呼ばれていて、パン屋、お菓子屋、靴屋、薬屋に始まり、油屋、八百屋、お茶屋、ハンコ屋、乾物屋と続く。通りの中ごろにある私の実家は、小さな貸本屋をやっていた。通りの終点は、なだらかな坂道になっていて、登りきると、今度は直角に、紅葉坂という坂がのびていて、その先には、横浜でもかなりの老舗の県立音楽堂がある。

昔は、クラシックの演奏会が盛んで、十二月にもなると、演奏会帰りの人達が、第九や賛美歌を合唱しながら家の前を通りすぎていった。おそらく「音楽どおり」という名前も、そんなとこから付けられたらしい。私が幼い頃、子守唄替わりに聞いた「もろびとー、こぞりてー」が日本語だったという事を知ったのは、ずい分後だったと思う。
                        …【略】…

少年の頃、よく屋根に登り、瓦に腰かけ見下ろした風景は、今、この屋上からは見られない。回りをいくつもの高層ビルやマンションに囲まれて、花咲町「音楽通り」も、時代の波に取り残されまいと、古い家は、五階、六階のビルに建て替えられ、木造の家は、もう、数える程になってしまった。



    集英社『すばる』1988年7月号<フォーラムすばる~町の顔・屋上>より
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 ※文中赤い文字の「パン屋」が当店です。
 (注・本文どおり抜粋しましたが、読みやすくするために区切りを入れました)

# by tamago1916 | 2009-08-31 19:04

昭和30年代の頃、音楽通り、祭り、など。

昭和30年代ー店主が10歳の頃、喫茶店の看板の価格に時代を感じます。
現在の電話番号(231)が(3)です!!
クリスマスシーズンなので、ショウ・ウインドには装飾用ケーキが飾られています。


この当時の「音楽通り」の上から見た風景です。まだ木造の建物ばかりでしたが、野毛の繁栄に伴って商店街はとても賑わっていました。


この界隈の守り神「子大神(ネノオオカミ)」のお祭りです、このお祭りは現在も変わることなく続けられています。今はなくなってしまった、大きな「音楽通り」のアーケードが当時の繁栄を伝えています。


             

# by tamago1916 | 2009-08-12 16:22

昭和30年頃の「市電」

明治から昭和の時代を、市民の足として走り続けた「市電」の姿です。この写真は、当時目抜き通りであった現在の神奈川県道218号線(平戸桜木道路)を走る市電です。
この道を「みなと祭」のパレードも通るほど繁華な道路でした。
写真の裏には「KL20型・台車付き 昭和29年9月30日撮影」というメモがあります。

 
               昭和30年代の国際仮装行列
当店・店主の小学2年生頃の作文『国際仮装行列』です。現在の218号線は「電車通り」と呼ばれ、昭和30年代は横浜の中心で、「みなと祭・国際仮装行列」もここを通りました。幼かった店主が見た“当時の国際仮装行列”が描かれているので掲載します、表記は原文のままです。 
                        
…(略)
ぼくは、のりちゃんとござと ながいすをもっていきました。(*1)中ぜいむしょの前はもういっぱいでした。ぼくは去年いたところえいきました。(略)ぼくの前には、東京からきたというおばあさんがいました。ぼくはおばあさんに「おばあさんいつきたの」ときいたら、おばあさんは「九時ごろきたんだよ」といいました。せいねんだんのひとがはたをくばっていました。ぼくは二三十本もらったので、ほかの人にもあげました。  
…(略)
一時四十四分 (*2)さいしょのえらいしとやがい人などがきました。そのつぎに米ぐんのぐんがくたいや花じどう車などがとをりました。中かのりゅうぎょうれつには花火がつかわれていた。そのうちにのげおどりがきた。「野毛の山からのをえ~~え野毛のさいさい」とうたっていた、そのうちに雨がしどくなってきたのでおばさんが「かえろや」といったので、ぼくは「うんかえろう」といいました。
 …(略)


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【注】*1・中税務署は現在の「にぎわい座」の場所にありました。
*2・最初の偉い人や外人などが来ました、の意味です。下町なまりで「ひ」を「し」と発音するので作文にもそのまま表われています。米軍のブラスバンド、中華街龍踊り、なんと50年前もパレードの順番も出場団体もほとんど今と同じなのですね~!  「ノーエ節」がパレードに出ていた事に当時の野毛繁栄ぶりが伺えます。
                

# by tamago1916 | 2009-08-02 12:36

昭和30年代の店(大きな写真)

木造モルタル造りの店『喫茶 コテイ』です。

小倉アイス、あんみつ、氷あづき…先代の“あんこ好き”が偲ばれるメニューです。店の左側に立つ電信柱には「ハワイ旅館」の文字が!この旅館は町内にあった小さなビジネスホテルで、アロハシャツを着た“曙関”のような人が経営していました。ハワイ人というもっぱらの噂でしたが、実際にそうであったかは誰も知りませんでした。

# by tamago1916 | 2009-07-25 06:48 | 古い写真

昭和30年代後半の頃


当時、野毛の町にあった「聖アンデレ教会」をモデルにした、装飾用ケーキを作っているポーズの店主。(実際に切っているのはアンパンです)


木造モルタル造りの店、喫茶コテイ、COTY、の文字が見られます。


店の前を通る、当時のオシャレな親子連れ。





# by tamago1916 | 2009-07-24 16:21 | 古い写真

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